Facebookやtwitterはなぜ病み付きになるのか
どうも。Web2.0で儲かっているのはカンファレンスだけだというのはよく言われることですが、今週はTechCrunch50とDEMOがガチンコで行われています。出席されている方、いらっしゃいますか?
FacebookやTwitterもビジネスとしてはまだまだ未知ですが、ユーザーは依然として増え続けています。しかし、これらのSNSツールの付加価値や人気の理由を表現することは難しく、多くの人はやってみないとわからないと言います。かといって「大人」の多くはあれこれ試す時間もないですし、匿名・本名のどちらでするものかというのも悩みますし、取り合えずアカウントは作ったものの別に何が起こるわけでもなくさてどうしたものか、という方も多いのではないかと思います。
そうした私を含め「未だに何が良いのか解らないが無視するのもどうか」というタイプにとっては、やはり左脳的解釈が有用だと思うのですが、先日のNYタイムズに大変興味深く良質な記事がありましたのでご紹介します。興味がある方にはぜひ原文をお薦めしますが、かなり長いので、ここではいくつかポイントを絞って触れたいと思います。
この記事では、Facebookに火がついたのはNews Feedという、つながっている人の些細な動向や発言をトップページに表示する機能が加わったことだとして、その意味ではFacebookも TwitterもDopplrもTumblrも同様だという仮定で、どうしてそのような誰が誰と友達になったとか、二日酔いで眠いとか、何を読んでいるとか、そんな他愛も無いと思われる情報の授受がやみつきになるかということを考察しています。
自分の些細な行動を面白おかしく垂流したり、知り合いのゴシップを気にしたりということは、セレブ文化に染まり過度にナルシスティックな、若者に特有のもので何れ飽きるだろうと思っている人は特に30代以上には多いのですが、その人達もしばらくの期間積極的にに試してみると、なぜかそうした些細なトリビアを毎日楽しみにするようになる、と筆者は自分の経験も交えて述べ、そのパラドックスの鍵は社会学者が言うAmbient awarenessだと指摘しています。
Ambient awarenessとは、物理的に誰かの近くにいて仕草やため息或いはふとしたコメント等から無意識にその人の気分を読み取るというようなことですが、それが面白いのは、一つ一つは大した事のない情報だけれども、日々積もればある人の生活や人格を表すようになり、それを追う事によって会っていなくてもその人についてより知ることができるということだ、と筆者は言います。
Each little update — each individual bit of social information — is insignificant on its own, even supremely mundane. But taken together, over time, the little snippets coalesce into a surprisingly sophisticated portrait of your friends’ and family members’ lives, like thousands of dots making a pointillist painting. This was never before possible, because in the real world, no friend would bother to call you up and detail the sandwiches she was eating. The ambient information becomes like “a type of E.S.P.,” as Haley described it to me, an invisible dimension floating over everyday life.
これは確かに面白い点で、例えば10年以上連絡を取りあっていなかった人とFacebookで繋がると、その人の今が急にまた自分の生活や意識の一部になり、躊躇いなく「また会おう」という素地を与えてくれたりし、一度も会ったことがないブロガーのtwitterをフォローすることで、その人を人としてかなり知っているような気になったりします。別に一言一言は大したことがないのですが、その積み重ねによって、意外な一面を知ったり、その人を好きか嫌いかということはかなり正確に認識できるように思います。
実際に電話で話すよりも、携帯メールやチャット等で短い言葉をやり取りするほうが親近感を感じさせるという研究結果もありますが、そうした頻繁でホンワカしたリズムと、その人に対して新たに得られた知識が結びつくことで、より一層距離感が縮まる、或いは縮まった感じがするのかもしれません。
こうしたツールが力を発揮するのは、ごく親しい人との関係ではなく、むしろ「ちょっとした知り合い」や「交流会で挨拶した程度」などのいわゆる弱い繋がりにおいてだ、というのは想像に難くないと思いますが、その弱い繋がりをそれ程手間をかけずに強化し得るということは「大人」にとっては非常に有益な価値ですよね。実利としては仕事を探したり遂行したりする上でのコネとか、より幅広い知恵を拝借できたりすることもありますし、また人と繋がっているという何となく暖かい気分を得られることもあり、使い方によっては生活をより豊かにし得ると思います。
一方でネガティブな要素も幾つかあります。それはセレブとファンに見られるようなparasocialという一方的な関係だったり、関係を薄く広くしすぎてリアルで密な関係を疎かにしてしまう可能性だったり、或いはまるで小さな村にすんでいるような、誰が何をしているか皆が知っているような気詰まり感や逃げ場の無さであったりします。
個人的には、インターネット時代におけるムラ社会への逆戻りという現象はかなり厄介だと思っています。人の正しい行いを促進する点がある一方、誹謗中傷や風説によるプライバシーの侵害ということは完全には防げないですし、ムラが物理的に分断されていないため、「新しい土地で一からやり直す」ということが非常に難しくなります。そしてムラであるが故に、個人の嗜好とは関係なく、参加・不参加の選択の余地もないという状況が起こりえます。
今時のアメリカの大学生はFacebookに関して既にそういう状況下に置かれているそうで、他人が自分の陰口を言ったり変な写真をアップロードしたりということを防ぎ、自分バージョンの自己主張を常に明確にすることでアイデンティティを守るためにもFacebookに参加し、使い続ける必要性を感じているという指摘もありました。この点は利用者の今後の推移を考える上で見落としていたので新鮮な一方、期せずしてかなり怖いモンスターが生まれてしまったという感じもします。
どの程度情報を開示し、メッセージをコントロールし、それでも尚利便性を発揮するために市場に任せるのか、というバランス感覚はこれから我々が試行錯誤をしながら身に着けていくしかないのかもしれません。
最後にもう一つ、こうしたツールのもたらす副産物として、自分をみつめるという効能が挙げられています。「今何をしているのか」ということをふと考え、それを人に吐露することで、自分をより真摯にみつめることにもなる、と。社会的動物たる人間の性を考えてしまいますね。
さて長くなりましたが、懐疑派だけでなく、そしてこうしたサービスを作っていてキャズムを越えたいと思われている方にも、気づきがあると思いますので、ぜひ原文を参照してみて下さい。
では今日はこの辺で。